オー マイ ブラザー

部活が休みだが、どうしても落ち着かず、テニスでもしようかと自宅から程近いストリートテニスに向かった日吉は、目の前の光景に目を疑った。
「やぁ、テニスも案外楽しいものだね」
「そりゃ良かった、理解も深められそうですね」
片方は山吹中の千石で、彼はテニス部なのだから全く違和感はないし、日吉は千石がたびたびここで自主練習をしているのを知っているから特に驚くこともない。
「あぁ、でも君は本気を一切出していないね」
「さすが、鋭いですね」
「君のその顔、見れば分かるよ」
問題は千石が敬語で話しかけながらラリーを続けている相手だ。日吉の知らぬ相手ならば、行きずりの試合だと納得できるのだが、日吉は彼を知っている。それも、知らぬふりなど出来ない間柄だ。
だが彼がテニスというものをしていた記憶などないし、彼はテニスをやりたいなど言っていたのさえ聞いたことがない。
「それに、君は練習用ラケットだろう、試合用はこちらだからな」
「そういうあなたも、本当はもっとできるんじゃないですか?」
それにしても、日吉がこのコートへやってくる前からラリーは続いていたのだろうが、大分長いこと続いている。息も切らさずに打ち合いながら会話をしているということは、お互いただの戯れなのだろうか。テニスをするためにやってきた日吉の存在に、二人共気付いていないようだ。
日吉は諦めて、入り口に程近い場所にあった塀に使われる予定だったであろう四角い石に腰掛けて、このラリーの行く末を見届けることにした。
一面しかないこのテニス場は、ほとんど人が来ないため、いつも貸切状態なのだ。裏道の奥まった場所にあることも関係しているのかもしれないが、静かに自主練習をしたい日吉にとっては打ってつけの場所である。
それが今は延々と続くラリーの音と対話が響いているだけで、日吉は壁打ちをする気にもなれなかった。




ラリーは意外な一言から終焉を迎えた。




「本気を、出してみてくれないか」
「いい、ですよ」
千石はそう言うと、先ほどまでとは打って変わって鋭い目つきになり、目でしっかりとボールを捉えて、スッとラケットで打ち返した。




千石の得意とする虎砲、まではいかないまでも、少し高めの打点から一気に落とすサーブを、相手は返せずにボールが落ちてバウンドする音だけがやけに日吉の耳に残る。





「うーん、惜しいな」
「何のことです?」
「君の本気、の一端しか見られなかった」
千石と握手をして、それからテニスボールを拾った男は、何かを見透かしたように千石を見ていた。
日吉は男のその目に、軽く眉を顰めた。男のその表情は、あまりに不躾に相手を査定しているようにしか、日吉には思えなかったのだ。

男の言葉に千石はにっこりと笑うだけ。何も、返さなかった。

「あ、日吉くん、来てたんだ」
「千石さん、こんにちは」
ふいと男から視線を外した千石が日吉を見つけて、笑いながら近づいてくる。男は、千石の向かうほう、日吉を見て目を丸くした。





「若…?」





「…お久しぶりです、兄さん」
「あ、やっぱり日吉くんのお兄さんだったんですね」
そう、千石とラリーをしていたのは、日吉の兄だった。彼は、日吉が中等部へ上がる少し前に知り合いの道場へ修行と称して家を出て帰ってこなかったものだから、二年近く顔を見ていなかったことになる。
日吉の兄は成長した日吉を見て目を丸くし、日吉は日吉で、随分大人びた兄の少し伸びたような髪や、まるで家でくつろぐかのような半端な丈のジャージのズボンと、ラフすぎるTシャツ姿に、どうしたって身内に思われたくはないと半ば呆れた目で見るしかなかった。そんなぎこちない再会の空気さえ壊すような千石の言葉。
「俺と若は似ていないだろう?」
「そうです、千石さん、俺と兄は似てるなんて言われたことないですよ」
「目、雰囲気、うん、とても似てるよ」
確かに兄弟なのだから多少は似ていてもおかしくはないのだが、日吉と兄は一見しただけではあまり似ていない。和装が似合いそうな切れ長の目に明るめの髪色をして、凛とした雰囲気さえ漂わせる日吉と、彼よりも幾分か柔らかい目をし、何故か白に近い金に色を抜いた髪、やはり目のように柔らかい雰囲気を持つ兄は、大抵はさして変わらない身長から友人と思われることが多い。それなのに千石はあっさりと兄弟だと見抜いていたらしい。
「目なんて、余計に似ていないよ」
「見た目じゃないですよ、目の奥の意思みたいなもの?ですかね」
くすり、と笑った千石は、気を利かせたのかどうなのか、何か飲み物でも買ってくると言い、財布を持ちテニスコートを後にしてしまった。

気まずい、と日吉は思った。

身長はともかく、年齢は丁度六歳離れているし、日吉の記憶にあるのは面白がって髪の色を抜いて笑っていた兄が、家を出る後姿が最後だ。それからもう二年近く顔を合わせていなかったのだから、果たしてどうすれば良いのか日吉には分からなかったのだ。
「…テニス、好きなんですか」
「いや、ああいう打ち合いなら、嫌いじゃないよ」
武術以外の試合はどうも苦手なのだと笑う兄を、日吉は好きか嫌いか、と言われれば実の所あまり好きではない。ただ、それが彼の奔放なようで的を射る要領の良さに対しての羨望であることを日吉は分かっている。恐らく兄も知っているだろう。
「若は、彼と知り合いかい?」
「ええ、学校の違う先輩ですが、お互い良く此処で練習しているので」
「…彼は巧みな道化だ、気に入ったよ」
くつくつと笑う兄に、幼い頃に悪戯に巻き込まれたのを思い出した日吉は、どうか己だけは巻き込まないでくれと無意識に願っていた。その思いが杞憂に終わることを日吉はまだ知らない。
「そうだ若、俺は働くことに決めて戻ってきたんだ」
「…道場で、ですか?」
「いや、道場は手隙の時に手伝ってくれればいいと言われてね」
それではやることもないし、社会勉強も兼ねて働くことにしたのだと笑う兄に、日吉は素直に頑張ってくださいと返した。満足そうな兄の顔に、嗚呼そういえばこの人は昔から過保護だったと思い出す。

「はい、俺の奢りだよ」
丁度良く戻ってきた千石は、それぞれにスポーツドリンクを手渡す。そのペットボトルには、期間限定のスピードクジがついていたが、日吉はとりあえず飲んでから見ても良いだろうと、キャップをひねり口をつけた。まだ運動さえしていなかったが、久しぶりの兄との再会という緊張も相俟って喉が渇いていたから、冷たいそれがとても心地よく喉に染みる。
「お、当たりだ」
「ラッキー、俺も当たりです」
楽しそうな兄と千石の声に、日吉はまさかと思って自身の手にあるペットボトルのスピードクジを捲ってみた。



「…さすが、千石さんですね」



目についたのは当たりの文字。どうやらストラップか何かがもらえるらしいのだが、こうも当たりを引き当ててしまうあたりは、流石だと思う。
そういえば以前出かけた先で買っていたアイスにも、入っていると幸運になるという変わった形のものが半分も入っていたんだと思い出した日吉は、改めて千石の運の強さを思い知らされることになったのだ。
「何が流石、なんだい?」
「ああ、俺、運が強いみたいで」
そう言って財布から一枚五百円玉を取り出した千石は、日吉の兄とコイントスをすることにしたらしい。論より証拠、ということだ。
日吉は結果が見えているからか、自身はまだ何もしていなかったからか、バッグからラケットとテニスボールを取り出して、壁打ちをすべくペットボトルを置いて立ち上がった。



「十戦十勝…俺が投げてもそうだとなると、本当らしいな」
「そうでしょう?」
「だが君は、その運を得るために努力を惜しまない人間だな」
「…そんなに過大評価しないでくださいよ」
日吉が壁打ちをしている音が響いているのを見た日吉の兄は、千石にまたラケットを借りて手にすると、日吉に向かい声をかけた。



「若、壁相手ではなく俺と打ち合わないか?」



「じゃあ俺は壁打ちでも、しようかな」
なんとも息が合っている、しかし日吉の意思を無視した提案に、日吉は結局溜息をついて同意してしまった。そうか、すっかり忘れていたが、普段の兄の行動など、千石と近いものがあるではないか。日吉はそこまで考えて、少しばかり複雑な気分になってしまい、振り切るようにボールを手にして振り返った。














「……なんで、こんなことに…」



結局三人で順繰りにペアを組んでラリーをしていたら日が落ちて、日吉と兄、そして何故か千石も一緒に、日吉の家へ向かっているというなんとも不可思議な状況になっているのだ。日吉は小さく呟きながら、何故か仲良く談笑するまでに親密になったらしい兄と千石を横目で見る。
兄は今日こちらに着いたが、まだ家へ顔を出していないと言っていたが、荷物が少ない所を見ると、先に送ってあるのだろう。日吉が気付かなかっただけで。
「なんで、千石さんも一緒に…」
「そりゃあ、こんな時間まで付き合ってもらってしまったから、礼はしなければね」
「大丈夫、家はこれくらいなら何も言われないし」
兄の言うことは尤もで、千石のように謙虚でもない態度だって別に構わないのかもしれないが、それでも久しぶりの道場の跡取りでもあるだろう兄の帰宅を祝う準備が出来ているかもしれないのだが、果たしてどういうつもりだろうか。
家族の反応はどうなのかという切実な問題から、今日の食事は何だろうという他愛もない問題まで、日吉の頭には様々な事が浮かんでは消える。



「うわあ、日吉くんの家、立派だなあ」
「そこで道場を開いているからな、気になるなら今度見学しても構わないよ」
「…ほら、突っ立ってないで入りましょう」
千石は初めて見る日吉の家を見上げては感嘆し、兄は道場の説明など始めそうな雰囲気で、感嘆はともかく道場の説明などいつでも構わないし、むしろ千石が興味を持つかどうか分からないことだ、とにかく説明など止めてもらうためにもと、日吉は千石と兄を門の中へ急かした。
「只今戻りました」
門から母屋の玄関へ行く道すがら、兄は変わった場所を見つけてはあそこはああだったこうだったと思い出に浸りかけ、千石も落ち着かないのかあちこち視線を泳がせていた。それにしても二人共楽しそうだと日吉はあきれながら、玄関を開けた。




兄が、戻ってすぐ家に顔を出さなかったことを咎められることはなく、日吉の両親、どころか祖父までも、千石という突然の来客を喜んで迎え入れた。
日吉は最初何故こんなにも迎え入れられたのか分からなかったが、良く考えれば幼稚舎からの付き合いである鳳を一度呼んだことはあるものの、他に友人を自宅に呼んだことが日吉にはなかったのだ。兄は何度か友人を招いて遊んでいたからか、どうやら日吉の家族は、日吉の性格では友達が出来ないのではないかと心配さえしていたらしい。
特に母など、千石をいたく気に入ったようで、兄の帰宅と就職を祝うにはいささか豪勢すぎるような食事を終えた後に、明日は日曜だし遅いのだからお泊まりなさいとまで言い出した。
千石が、食事の席で丁度親兄弟それぞれ用事があり不在なのだと言ったからだろうか。結局日吉の部屋に布団を一組多く用意し、千石を泊めることとなったのだ。



「……あの、すいません、母が強引で…」
「日吉くんが気にすることじゃないし、迷惑なら別の部屋で寝るよ」
自慢じゃないけど寝相は良いよと笑う千石に、日吉は少し安心し、別に構わないですと返した。そうして、食事中落ち着かなかった原因に、日吉は気付いた。
当たり前、ではあるのだが、千石は日吉のことを下の名で呼んだのだ。部活の先輩である宍戸には名前で呼ばれることは慣れているのだが、それ以外の人間で自身を名前で呼ぶ者が家族しかいないのだ。だから日吉はどうしてもくすぐったく、落ち着かなくなる。
「お兄さんはお母さん似、日吉くんはお父さん似って所かな?」
「ああ、それは良く言われます」
「でも、お兄さんにも鋭いところがあるように、日吉くんにも暖かいところがある、よね」



どきり、とした。



確かにそれは的を射ていた、と思う。自分のことは分からないが、兄をこの一日足らずでそこまで理解した人間など、家族を除いてそうそういないだろうと、日吉は思う。それは千石が努力家であることをあっさり見抜くことと大差がないはずだ。
それが同属だからなのかどうかは分からないけれど、日吉はぼんやりと、やはり千石と兄は似ているのだと思った。














次の日、千石を途中まで送るために出かける準備を済ませた日吉が玄関へ向かうと、母親と千石が何か話している声が聞こえてきた。
「あの子、誤解されやすいけれど優しくて良い子だから、これからも仲良くしてあげてね」
「はい、美味しいお食事ありがとうございました、他の御家族にもよろしくお伝え下さい」
柔らかく笑いあそこまで丁寧な言葉遣いをする千石を昨夜も見たのだが、日吉にとってはどうしてもしっくりこないものがある。千石はもう少し余裕のある笑みで、少しふざけた言葉遣いをするイメージが、日吉の中にすっかり根付いていたのだ。
「千石さん、お待たせしました」
「ううん、大丈夫、それじゃあ、お邪魔しました」
「またいらっしゃいね」
日吉の兄は、結局千石が日吉家を後にする時にも、起きていなかった。
少し残念だけどと肩を竦めた千石と、呆れた日吉が門を出て、テニスコートの近くまで来ると、千石は伸びをした。よほど緊張していたのだろうかと日吉は思った。けれど千石が発した言葉で覆されてしまう。
「うーん、やっぱり枕が違うと、寝られるけどどこか落ち着かないね」
「それもそう、かもしれませんね」
あの謙った態度や、家族の雰囲気に対する緊張などなかったのだろうか、日吉はこの千石という男の狡猾さを垣間見た気がした。鳳など家に入るだけでも緊張しきりだったのだから可愛いものだ、と思う。
「それじゃあ、ここで大丈夫だよ」
「なんだか強引ですみませんでした…」
「大丈夫だよ、楽しかったからね」
日吉くんは楽しくなかった?と問われ、楽しかったと日吉が素直に返せば、千石はそれで良いんだよと笑った。こういう風に兄に諭されたこともあったな、と日吉は思い出す。やはり所々、千石は兄に似ている。容姿は違えども態度が似ているのだ。
最初はどうしたって友人にすらできないと思えてしまったが、日吉が思うほどに千石は軽くもなかったし何よりとても努力家だと知り、何故かこうして仲良くしている。予想をはるかに超えた、人付き合いだ。




手を振り遠ざかっていく千石を目で追ってから、日吉は口元を少しだけ綻ばさせた。



















「日吉、お兄さんいたんだ」
「言わなかったか?鳳」
月曜、鳳と日吉は昼食を取るべくカフェテリアに向かっていた。並んで歩きながら、日吉が兄が帰ってきたのだと告げると、鳳は酷く驚いた。日吉はすっかり言ったつもりでいたのだが、鳳にとっては日吉に兄がいること自体初耳のようだ。確かに、日吉が幼稚舎の頃から、稽古には出るものの兄は家に居ることが少なかったから、家に呼んでいても会わなかっただろう。
その日に千石と会ったことはなんとなく言いそびれたまま、カフェテリアに着く。少し人影がまばらなカフェテリアで、一部何故か人だかりができている。テニス部部長かとも思ったけれど黄色い声はさほどではないし、人だかりはカウンターに集まっている。日吉は鳳と目配せをして、好奇心から人だかりへ近づいていった。



「あ、若、制服似合っているな」



「…兄さん…なんでここに…」
「言わなかったか?俺の就職先はここだって」






「言ってないし聞いてない!!」






fin.


鳳「わ、日吉が大声出す所久しぶりに見たよ」
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