エンドレスループ

―何かがおかしいのはこの茹だるような暑さのせいだろうか。


鳳長太郎は悩んでいた。それでも時間は鳳を差し置いて淀みなど感じさせずに流れている。
心此処に在らず、そんな言葉がしっくり来るような様子の鳳は、おかげでサーブをかなりの割合で外していた。元々コントロールが良くない、ノーコン等と評される鳳は、普段以上に外していたのだが暑さのせいかと心配されるだけだった。その心配さえ上の空だったのが暑さにやられたと勘違いされてしまい、今は空調のきいた部室にいる。

おかしいな。

鳳はやはり悩んでいたが、その悩みを誰にも相談出来ずにいた。何せそれはあまりに非現実的で、思い過ごしだと言われるのがオチだろうから。鳳自身もそうであれと願うのだが、それはどうしたって拭い去れずに付きまとうのだ。
人当たりの良い鳳の友人、の中にそうした非現実的な話題を好む人物はいるのだが、今回ばかりは彼にも相談出来そうにない。


何故なら鳳の悩みの原因はその人物なのだから。


ここ最近、厳密に言えば二週間程前から、彼の様子がどこかおかしかった。性格や態度から敵を作りやすい彼は、さらにそれを溜め込んでは力に変えるような男だ。それなのに最近の彼はどことなく脆く折れそうに見えて、鳳は心配で仕方ないのだ。
「何か、あったのかなあ」
唸れども答える者はなく、ただ空調の静かな音だけが鳳の耳についた。





「大丈夫かよ長太郎」
「あ、宍戸さん」
部室の扉が開く音に顔を上げた鳳の目に、先輩である宍戸の姿が映る。そうか休憩か、鳳はぼんやりと考えたまま椅子の背もたれに頭をのせた。
「お前ちゃんと水分取ったか?」
「…取って、ないです」
「ったく、涼しい所に居るだけじゃダメだっつの」
ほらよ、渡されたスポーツドリンクは冷たくて、鳳は思わずそれを額に当てた。このまま悩みも冷えて無くなればいい、などと考えてみたが、やはりそれは鳳の中で燻り、彼の中に淀みを作る。
「激ダサだな、まあ無理してぶっ倒れるよりは良いけどよ」
「す、みません」
くら、少し揺れた視界に、暑さにやられたのも事実かと鳳は今更ながらに実感した。もう少し休んどけと言い残し、宍戸は部室を後にした。休憩も終わりなのかと鳳は考えながら、痛み出した頭に眉を寄せた。本格的に暑さにやられていたようだ。
すっかり汗をかいたボトルを額から外して、ロッカーの中からタオルを取り出すべく立ち上がった、瞬間。ぐらり、世界が波立つ。
あ、と思った時にはへたり込んでしまった。視界が霞んでいたが、手にしていたスポーツドリンクを一口飲めば少しは楽になる。ようやく立ち上がり、ロッカーからタオルを取り出す事ができた。
タオルで濡れた額を拭い、それからボトルの水分を取り、そのままそれをタオルで包んだ。頭は痛むままで、お借りしますと誰にともなく呟いて、鳳は部室のソファーに倒れ込む。

何で誰も気付かないんだろう。

「日吉、どうしたのかな」


ぽつり、呟けど答えは見つかるはずもなかった。


結局その日はあまり部活もできず、鳳はため息。情けないと思いながらも、帰途についた。





どうしよう誰か誰か誰か。何故俺しか気付かないの。ああほら、今だって。





鳳は良く日吉と一緒にいた。日吉には軽くあしらわれるけれど、鳳はさして気にしない。日吉は本当に嫌ならば本格的に遠ざける事を、鳳は知っている。
二人は幼稚舎からの付き合いだったし、日吉はどこか周りを遠ざけたがり、周囲はそれを察したからか積極的に親密になろうとはしなかった。だから鳳は、日吉の数少ない友人であり、彼の性格を多少なりとも理解しているという自負がある。日吉も鳳を友人として認めていたし、彼の性格もそれなりに理解している素振りを見せるから尚更だ。
それでも鳳は、自身に燻る悩みを消せないまま。
「日吉」
「何だ鳳」
「最近悩みとかあるの?」
口にしてから後悔した。日吉は、好き好んで悩みを誰かに打ち明けたり相談したりしないタイプだ。鳳もそれは理解していたのに、その言葉はあまりにも直球すぎた。
「いや、別にない」
「…そう、なら良いんだ」
結局何も分からずに鳳は項垂れた、瞬間。


「…え?」


鳳は我が目を疑った。



鳳と並んでいる日吉の影が、にやあと、笑ったように見えたのだ。そしてそれは、鳳の隣でため息をつく日吉、とは違う姿になり、ブワッと鳳の影を呑み込むかのように動いたのだ。



―呑まれる!


思った瞬間に鳳は顔を上げて日吉を見た。じわ、暑さが滲むはずなのに鳳は身体が一気に冷えたように、ぶるり、身震いをしてしまった。
日吉はじっと鳳を眺めていたのだ。普段、よりも冷たく光るような目で。すうっと目を細めた日吉を、眺め返す鳳の視界の隅では、自身の影が日吉の影にすっかり呑み込まれていた。



「これで満足なのか」



日吉はスッと顔を上げて後ろへと視線を向ける。鳳は何が何だか分からないままに日吉の視線を追うように目を向けた。そこはテニスコート裏の木陰で、たまにテニスボールが転がっている所だ。

ガサガサ、誰もいない筈の木陰が動く。
風もない暑い日、なのに木陰はざわざわとざわめく。

「え、日吉、なにこれ」
「ちょっと黙ってろ」

鳳をぴしゃりと黙らせた日吉は、じっと木陰に目を向けているだけだ。それでも何かを捉えたように何もない筈の空間、ある一点だけを見つめている。
ガサガサ、ざわざわ、音が一際大きくなって、そしてぴたりと止んだ。

「分かったか、お前が望んでいるもんはもう、ここにはないんだよ」

日吉は視線を外さないまま話し続ける。鳳は何も言えずにそれを眺めるだけで、状況もいまいち良く分かっていない。テニスコートでは休憩中の部員達が騒いでいるらしいが、鳳の耳には届かなかった。


「お前はもうとっくに死んでるんだよ」



幽霊、鳳が愕然とした所で頭に鈍い衝撃。



「だから、もう止めとけ」

日吉の声が段々遠くなって、鳳の視界は段々と闇、の中、へ。
吸い込まれたような感覚と支えられたような感覚、鳳はそれから何も分からなかった。














「長太郎!」
宍戸の声が聞こえた気がして、それから鳳の意識は一気に浮上していく。真っ先に視界に入ったのは心配そうな顔の宍戸。
そして、部室だった。
傍らには転がった見覚えのあるボトル。既視感が鳳を襲う。
「たく、お前は他人ばっかりじゃなくて自分も気にかけろよな」
「宍、戸さん、すみません…」
「ほらよ、もう少し休んどけ」
宍戸はまだ起き上がれていない鳳にドリンクボトルを手渡した。ひやり、手に伝わる冷たさはやはりいつか体験した事にしか思えなくて。
鳳は少し混乱したまま、起き上がろうとした所を宍戸に制された。


「さっきみたくまた倒れたらどうすんだよ」


宍戸の言葉に頷きながらも、鳳はさっきとはどの事だろうとぐるぐると思考を巡らせる。けれど直ぐには答えが出なかった。ガチャリ、宍戸が部室の扉を開けて、出ていったようだ。鳳は部室の扉に目を向けてから、ゆっくりと体を起こす。そして、小さく息を吐いてからロッカーへ向かおうとゆっくり立ち上がった。
今度は立ち眩みもなくロッカーに辿り着く。
ひやり、エアコンにより冷えたロッカーの取っ手を掴み、開いた。

「あ、れ」

ロッカーの中は自身が暑さにやられた日と全く同じだった。
鳳は早鐘を打つ心臓を押さえ込むように胸元を掴む。恐る恐る携帯を取り出して日付を確認すると、鳳はその場に座り込んだ。
「そんな、まさか」



日付も、あの日と全く同じだったのだ。




愕然とした鳳の背後に伸びた影は、口元に三日月のような白い影を湛え、にやりと笑みを浮かべた。









ループ、ループ、終わらないループ。









「次は鳳か、往生際が悪い奴だな」


fin.


in summer.
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