N i g e l l a

―まずい事になった。


日吉は普段から愛想が良いとは言えないのだが、ここ数日の彼はしかめっ面が多く、それに拍車をかけていた。そのせいか日吉のクラスメイト、どころか気弱な教師までも、彼に話しかける時にはおっかなびっくり、という始末だ。
気にしないのは日吉の所属するテニス部の正レギュラー達と、その監督である榊くらいしかいなかった。

しかし日吉はそれらを気にした風ではなく、ただ延々と思考を巡らせるだけ。
原因は数日前から様子のおかしい鳳に関わる事だ。しかし様子がおかしいと知っているのは日吉だけだったし、きっと周りからすれば何ら変わったことなどないのだろう。特に噂も問題もなく日々が過ぎていくのがその証明だ。


「でもそれも時間の問題か」


日吉は気付いていた。時折鳳の様子を窺うような視線を向けている人物がいることを。そして、日吉の経験から、次はその人物が危ないということも。
危ないとはいえ、目立った身体的な危害がある訳ではない事も知っているのだが、日吉はこれ以上問題が広がってはいけないと何となく感じていた。かといって、どうすれば良いかなど全く思い浮かばなかったのだが。

悩みの原因でもある鳳は傍目には普段と何ら変わりなく、休憩中の先輩達との談笑に興じている。気楽なもんだと日吉は毒づいてみたのだが、それで問題が解決するでもないし、この茹だるような暑さが和らぐでもなかった。
呆れたように溜め息をついた日吉がテニスコートの裏手へ向かったのと、芥川と向日が何処かの水道に繋げたのか、水の流れたままのホースを引き摺りながらテニスコートへやって来たのはほぼ同時だった。日吉がテニスコートの裏手へ着く頃には、笑い声と怒声がテニスコートから響いてきて、日吉はますます深い溜め息をつくしかできなかった。


木陰は多少涼しかったが、時折吹き抜ける風が生温さを運んできている。
日吉はその茂みをかき分けて、さらに奥へと進んでいった。木には蝉がいるのか、喧しく鳴き声をあげている。それだけで暑さが増えるようで、日吉は顔をしかめた。
足元に黄色いテニスボールが当たり、日吉はしゃがみこんでそれを拾い上げた。随分と汚れてしまっているそれがあった場所を見て、日吉は思わず声をあげてしまった。慌てて辺りを見回したが、日吉の声はテニスコートで繰り広げられているだろう水浴び(という名のばか騒ぎ)の声に掻き消されたらしく、誰も気付かなかったようだ。




テニスボールのあった場所には、ちょうどそれが嵌まるサイズの穴が空いていたのだ。




それだけならば誰も気にしないだろうが、そこは日吉が幽霊、らしきものを見た場所だった。煩いくらいに蝉の鳴き声が響いているが、それと同じくらいに日吉の心臓はどくどくと音を立てている。
思わずテニスボールをきつく握りしめて、ごくり、日吉は固唾を飲み込んだ。

空いている手で、恐る恐るその穴へと手を伸ばしてみる。手にはただの土の感触で、それは日吉をがっかりさせた、のだが。ひやり、首筋に冷たいものを押し当てられた感覚が日吉を襲う。

思わず顔を上げると、そこにはだらりと垂れ下がる蒼白く細い足、があった。
日吉は目を見開いて、段々と視線を上へ持ち上げていく。


「…っな!」


今は燦々と日が照り付ける昼間で、さっきまでは確かに何もなかったその視線の先の空間に、一人の女子の体が垂れ下がっていた。氷帝の制服を着て、長いダークブラウンの髪を垂らしている彼女の首筋あたりから、何か細い紐が見えた。
日吉は体が一気に冷えていくのを感じて、蝉の声が遠ざかっていくような錯覚に陥る。つう、冷や汗が日吉の頬を伝う。今この場だけが、まるで時間が止まり、他から隔離されてしまったように日吉の頭の中はゆっくりと回転していた。




「ああ、あいつか」




それはここ最近日吉の身の回りで起きている不可思議な現象の原因のようだ。不意にその人の顔がぎこちない動きで持ち上がる。さらり、流れる髪は綺麗に木漏れ日を反射させた。
持ち上がり見えた顔は、色恋に疎いような日吉でさえも可愛いと思える造形だった。二重の大きな瞳に光があれば、の話だが。
「お前が今ここに居るってことは、鳳は戻ったのか」
日吉がそれに話しかければ、その幼さの残る少女の顔が、一気に般若じみた恐ろしい顔に変貌した。驚く感覚が麻痺したのか、日吉には何の表情の変化もない。
だらり、垂れた彼女の腕がぴくり、動いてぎちぎちと音を立てそうな程に不恰好に日吉の首に延びる。ひやり、日吉にはその冷たさだけが伝わる。それでも日吉はそれを見据えていた。






「お前は自分で捨てたもんにすがってるだけだ」






日吉の言葉に、彼女は目が落ちそうなほどに見開いた。心外、とでも言いたいのだろうが、彼女は口を開こうとはしない。


しばらく沈黙の対峙が続いた。


「日吉!」
沈黙を破ったのは鳳だった。どうやら本当に戻ったらしい。しかし茂みに近づいた途端大袈裟に声を上げた鳳に、日吉は溜め息をつくしかない。今まで誰に言うでもなく、表沙汰にしていなかった日吉の努力が無意味になる、だろう。
バタバタと足音、そして呼び声。それがこのまま素直に終わらない事を物語っている。
「馬鹿か、ややこしくさせるなよ」
「え、あ、ごめん日吉」
良く分からないけど、と付け加えながらも、鳳は目の前の光景から目を離せない。何度目か分からない溜め息をついた日吉は、それからすぐに木に吊り下がるそれに目を向けた。
相変わらず般若のような形相のそれは、日吉に向けて伸ばしていた手を、今度こそ日吉の首に絡めようとしている。その手の冷たさだけ、日吉ははっきりと感じ取って、それでも日吉は何もしようとしなかった。
「ひ、日吉っ」
それを見て慌てたのは鳳で、日吉と対峙している幽霊のように顔を蒼くしてへたりこんでしまった。丁度やって来た向日も鳳と同じ、どころか後退りまでしていたし、芥川など幽霊を見たことに大喜びで、後からゆっくり来ているのだろう跡部達に報告するためか、その場から去ってしまった。
アテにならない人ばかり真っ先に集まったなと日吉は考えながら、視線を幽霊に向けて何度目か、口を開いた。
「同じことを何回も言うのは嫌いだ」
幽霊は息を詰める。その手は相変わらず日吉の首にかかっているのだが、それでも臆さない。




「お前が本当に望んだ日常なんて、もう二度と起きないんだよ」




日吉はそれだけ言って、初めて幽霊の手を掴んだ。それは、芥川に急かされたらしい跡部と宍戸、そして忍足がやってきたのとほぼ同時だった。
「岳人…ホンマこういうの苦手やなあ」
「う、うるせえよ、侑士」
立てない向日に呆れたような忍足は、それでも彼の手を取り立ち上がらせた。それでも向日は、その忍足の手が微かに震えている事に気付く。しかし向日はそれを指摘するよりも自身の震えている足を叱咤激励する事に頭を向けるだけで精一杯で。
「ま、じで、幽霊かよ…」
呆然と呟いた宍戸は、忍足のようにパートナーを気遣う余裕など、持ち合わせてはいなかった。うっすらとした幽霊、を眺めているだけで、鳳は宍戸に助けを求めるという事さえ忘れたようだ。
「ほらほら跡部!マジで幽霊でしょ!」
「…そうだな」
場に全くそぐわないような声を上げたのは芥川で、跡部は相槌を打ちながらも、幽霊、というよりはそれと対峙している日吉に向けて、若干の同情を含んだ目を向けた。日吉にそれが通じたかは跡部さえ分からない。日吉はじっと幽霊の腕を掴んだまま、それを見ていたからだ。
「本当は分かってるんだろ、認めたくないのはお前が」


「うるさい!」


幽霊が初めて声を上げた。嗄れた醜い声、低いとも高いとも取れるような、二重にもなったような声だった。
びくり、その場にいた何人かが肩を揺らした。幽霊はもう、可愛い少女などではない。ただこの場に取り残されたもの。
日吉は臆することなく幽霊を見つめ続けた。




「お前、本当は死にたくなかったんだろ」




もう幽霊と日吉がいる場所と、レギュラー陣がいる場所は切り離されたかのようで、周囲はただ固唾を呑んで見守るしか出来なかった。あの跡部でさえも。
ぴんと張り詰めた空気、そこだけ時間が止まっているかのようだ。
「だから、死んでいないと思いたかった」
でも、日吉は続けた。
「お前は捨てた、それが事実だ」
幽霊は、もう反論をしなかった。日吉が手を離しても、それは腕をだらり、力なく垂れただけ。俯いた顔からは何も読み取れはしない。

「分かったならもう消えろ」

日吉はそれだけ言うと、踵を返した。未だ目の前の光景が理解できないのか、恐ろしいのか、レギュラー陣はぽかんと日吉を眺めるだけ。
それを皮肉る気も失せていたらしい日吉は、彼らを無視してその場を立ち去ろうとした、のだが。





「日吉!」





跡部の声に日吉が振り返った瞬間、目の前に幽霊のにやあと笑った顔があった。ひや、冷気と冷や汗、日吉は思わず身構える。
実のところ、日吉も自身に霊感があるとは思っていなかったし、特に除霊や浄霊といった事をやろうとは、微塵も思っていなかった。だから実際は見た目以上に焦りさえ感じていた。そして今、以前対峙した時とは明らかに違う危険を感じていたのだ。
「お前、も、道連れ、だ」
ひゅっ、空気を裂くような音が聞こえた、と同時に、日吉は咄嗟に幽霊の腕を取る。殺気漂う幽霊の間合いなど分かりはしなかったのだが、どうにかなった。
「往生際が悪い」
「日吉、そのまま抑えておいてね」
新たに落とされた声に、日吉ははいと頷き、幽霊の片腕を解放して、サッと掴んだままの方の腕を自身に引き寄せた。そして幽霊の体を反転させ、腕を捻り上げる。痛み、はないようだが、身動きを取れなくする事には成功したらしい。



「流石日吉、やるねー」



幽霊と日吉、そしてレギュラー陣の合間を縫ってやって来たのは、滝だった。
「美味しいとこどりですね、滝さん」
「主役は遅れて来るもの、でしょ?」
滝の浮かべた柔らかい笑みは、その場とはかけ離れている。日吉以外はぽかんとしていて、状況が把握しきれていないらしい。
「さて、終わりにしよう」
滝はジャージのポケットから、何やら紙切れを取り出した。良く見ればそれは文字が書かれた短冊形の、御札。
幽霊はハッと目を見開いてじたばたと暴れようとしたが、日吉に抑え込まれて動けない。
「衝動が強すぎたのが仇になったね」
日吉の見つけた穴に近づいた滝は、幽霊に向けて笑った。目は笑ってなどいなかったけれど。
穴の傍にしゃがみこんで、滝はその穴の中へ持っていた御札を入れた。途端に幽霊が呻き声をあげ、向日や鳳などはすっかり涙目になる。しかし、他の誰もが彼らを慰める余裕を持っていなかった。




一頻り呻いた幽霊は、徐々にその体を揺らめかせ、そして遂にはすっかりと穴へ吸い込まれていった。




「さ、後はこれを埋めなきゃね」
「それは構いませんが、この状況どうするんですか」
立ち上がった滝は、日吉の言うこの状況、を眺めてから苦笑いした。彼らの周りには、未だ先ほどまでの出来事から立ち直れていないレギュラー陣の姿があったからだ。
跡部さえ顔をしかめて二人を眺めていたし、はしゃいでいた芥川も、今は涙目のままの向日にしがみついている。忍足は顔を引き吊らせ、宍戸もどこか呆けたような顔のままだ。樺地は相変わらず無表情、だったが、跡部の傍から離れようとはしない。鳳に至ってはへたり込んだまま蒼い顔をしている。
「面白いから放っておこう」
「…それもそうですね」
笑う滝につられて、日吉も笑みを浮かべた。それは可愛いと言うよりは意地の悪い笑みだったが。






レギュラー陣が落ち着きを見せた頃には穴は埋められていて、日吉と滝はあの幽霊騒ぎなど無かったかのように振る舞うものだから、あれは夢だったのかと錯覚してしまいそうだった。
ただ、穴のあった場所には花が添えられてあり、それだけが、あの出来事は夏の暑さが見せた夢でないと主張しているかのようで。





ただ一輪のそれは、見る者に訳もなく切なさを沸き上がらせるのだ。


fin.


in summer 2.
ウィンドウを閉じてお戻りください