答 え 

 トン。

 静寂の中にそれは嫌なくらい響いた。
 テニスコートのネット際に落ちたボールは、惰性に任せて転がる。コートに落ちた影に隠れる場所で動きを止めたそれを、日吉は拾わなかった。自身の黒いスニーカーの爪先をしばらく眺めているだけだ。
 静かに流れる風が、綺麗に切り揃えられた日吉の明るい茶髪を柔らかく撫でる。テニスコートに流れた静寂はどれくらいだろうか。審判をしていた準レギュラーが、ゲームセットを告げた声さえ、日吉の耳には何処か遠くに聞こえていた。
「ありがとう、ございました」
 コートの自陣に転がるボールを気にすることなく、日吉はネット際に近付いて、対戦相手であった正レギュラーを見据える。日吉は、相手の度が入っていない、使い込まれたような眼鏡越しの視線と己のそれを合わせることさえそこそこに、礼を済ませてテニスコートを後にした。
 手にしていたラケットを、内心に燻る焦燥に任せて叩きつけたい。
 日吉はそんな衝動を、唇を噛み締めることでしか抑え込めない。すう、と首筋に垂れた汗を拭う間さえ惜しく感じられた日吉は、そのまま壁打ちのために用意されているスペースへと足を向けた。




 軽快で小気味良い音が辺りに響く。振りかざすテニスラケットと、黄色いテニスボールの軌道を目に捉えながら、日吉は黙々と壁打ちに精を出していた。だが内心は冷静でいられず、表情は苦渋に満ちている。

 ―― 何故。何故だ。

 その焦りが手元に出たのか、テニスボールの軌道がずれる。あ、と思った時には遅く、跳ね返ってきたボールをラケットに捉えることが出来なかった。
 ポン、と弾んで後方に逃げていくボールに、日吉は舌打ちをした。
「どうして」
 苦々しく吐き捨ててから、転がっていったボールを拾うべく日吉はラケットを壁に立て掛ける。
 この焦燥の原因など、日吉は痛いほど分かっている。まだ己に力が足りないことが原因の一つであることも。日吉には理解できない事柄すら、それに含まれていることも。
 テニスボールを掴み、辺りを見渡すと、壁打ちのスペースには日吉しかいない。テニスコートの方が俄に騒がしくなっている事が、そこからは離れたこの場所に伝わるほど、静かだ。
 日吉は、試合形式のゲームが行われているであろうコートへは行かず、再び壁打ちをしようと決め、ラケットを取るために踵を返した時だった。

「熱心やなあ」

 不意に声をかけられた。誰かなんて嫌でも分かる。先ほどまで、あの歓声響くテニスコートでゲームをしていた相手だからだ。そもそも、東京にあるこの学校で、関西に特有のイントネーションで喋る人間など、日吉が知る限り一人だけだ。
「忍足さん、何の用ですか」
「跡部の試合やのに、日吉がおらんのは珍しいやん」
「別に忍足さんには関係ないでしょう」
 日吉はそれだけ言うと、壁打ちをするべくさっさとラケットを取りに行ってしまう。でもそうか、跡部さんの試合だからここにまで歓声が聞こえたのかと、日吉は納得していた。けれど、忍足にそれを読み取る術はなく、素っ気なく返した日吉の態度に肩を竦めるだけだ。
「日吉、目の前にええ練習相手がおるやんか」
「お断りします」
 取り付く島もない日吉の言葉と態度は、言外に一人になりたいと告げていた。その証拠に、日吉はすぐさま壁打ちを始めてしまった。
 忍足は、その場を離れたって良かったのだが、ただの気まぐれでその様子を眺め始める。
 右半身を引いた日吉独特の構えから、流れるような動作でラケットを操り、そしてボールを打つ。その一連の動作を初めて見た時は、忍足も驚いた。
 壁にボールが当たる音や、日吉の呼吸が響く合間に、わあっとテニスコートから歓声が響いてくる。当たり前だが、日吉はそれに気を乱されてはいない。
 だが、それとは別の何かが気になって仕方ないらしい事に、忍足は気付いていた。あのコートでのゲームの後、日吉は明らかに焦燥感に駆られていた。となれば、原因は自身だろうかと忍足はぼんやりと考えながら、忌々しげな表情のままでひたすら壁打ちを進める日吉を眺める。
 日吉は、意外と分かりやすい人間だ。それは忍足に限った話かもしれないが。彼は意外と、表情に出やすいのだ。それは嬉しいとか、楽しいといった類のものでは決してなかったが。
 日吉は入部当初から、部長である跡部を睨み付けるという無謀な行為をしていたし、黙々と自主練習を遅くまでこなしていた。ナイターが終わる時間まで、一人だろうと気にせずに練習していた日吉の姿を、忍足は時折目撃していた。あの頃から、彼の目標は跡部を打ち負かすことだったろうし、今もそうだ。
 構えこそ違えど、忍足が今眺めている日吉の姿は、あの頃を彷彿とさせる。そこに感慨などないけれど。


 不意に、パァンと激しい音が響き、忍足がその原因に目を向けると、日吉が打ち損じたらしい。ボールが彼の後方に転がっている。
 日吉はと言うと、忍足が居ることをすっかり忘れているらしく、手にしていたラケットを乱雑に振り下ろした。忍足はその時の日吉の表情こそ見えなかったが、それでもやり場のない感情をどうにか昇華させようとしているのだと分かった。
 日吉がこうして激情を顕にするのを忍足が見るのは、関東大会の青学戦以来だ。悔しさからか己の不甲斐なさからか、日吉の目に流れた一筋の涙。そして必死にそれを噛み殺すような嗚咽と、僅かに震える肩。ちょうどそれを見たあの時、忍足の中の日吉のイメージが、小さく変容した。そうして日吉を見る度に、さらに細かにそれは形を変えていったのだ。
 そして今、それはさらに変貌し、忍足の静かな心の中に、ある一つの感情をもたらした。
「何で、何でなんだよ」
 日吉はすっかり俯いたまま、ボールを拾おうともしない。忍足がそれを見ている事さえ、知らない。
 皮肉めいた物言いの敬語ですらない日吉の言葉は、焦りに満ちている。もどかしいのだろうか、忍足はそう考えながら、けれど手を貸そうとはしない。
 先程断られたからではなくて、今、日吉の抱える焦りは、きっとテニスの実力のせいではないだろうから。いや、忍足がそう思いたいだけなのかもしれない。
 常日頃から、跡部を目標に掲げて憚らない日吉が、忍足とのあのゲームから焦り、もどかしさに憤り、激情を顕にしている。それが忍足のせいだとしたら、彼自身嬉しいと思うのだ。 日吉はどれくらい俯いていただろう。ふと、彼は顔を上げて振り返る。そして、まじまじと日吉を眺めていた忍足を、ようやく視界に入れた。
 段々と驚きに目を見開かせていく日吉に、忍足はにい、と僅かに笑みを浮かべる。それは単純に、日吉と目が合ったことや彼の驚いた顔を見られた事への忍足の嬉しさからだったのだが、日吉はそれを、忍足が一部始終を見ていて、自身へのからかいの種を見つけた笑みだと取ったらしい。
「……忍足さん、もしかして、ずっとそこに居たんですか」
「日吉、悩みでもあるんか?」
 忍足は、日吉の問いかけには答えずに、ラケットを手にしたまま呆然と立ち尽くす彼との距離を詰める。別に、悩みなんて、と日吉は反論を試みるのだが、他人に今までの姿を見られていたという動揺からか、しどろもどろだ。
「調子悪そうやし、俺で良ければ話くらい聞くで」
「アンタにする話なんてありません」
 そっと、忍足が伸ばした手を、日吉は必死ではね除けた。けれどそれだけ。
 日吉は逃げる訳でもなく、ただ忍足と視線を合わせないようにか、再びうつむいてしまった。

 完全な拒絶ではない。

 忍足は内心でほくそ笑みながら、だめ押しせんばかりに日吉の右手首を優しく掴んだ。慌てて振りほどこうとした日吉だったが、忍足は手を離すつもりは毛頭ないようだ。
「逃げたら良かったやんか」
「……アンタはいつもそうだ」
 日吉はそれだけ呟いて、それきりもう口を開こうとはしなかった。だが、忍足への反抗すらもなくなった。これは予想していなかったな、と忍足は考えて、それから歓声の消えたテニスコートは今どうなっているのかと、全く違う方向へと飛躍させる。そうして気付く。
 忍足自身も、少なからず冷静ではないのだと。
 掴んだ日吉の手首から、彼の体温が伝わってくる。温かいそれは、ただ壁打ちをした後だからか。それとももっと別の理由か。
「休憩も必要やで」
 冷静さを取り繕うように忍足の口から出た言葉は、確かにもっともな事だったのだが、それでも彼は日吉の手首を離そうとはしない。日吉も、頷きはするものの、動こうとはしない。
 お互いの心の内を探るような、気まずい沈黙。
「忍足さんは、狡いです」
 沈黙を打ち破った日吉は、相変わらず俯いたまま、少し上擦った呟きを忍足に投げつける。狡いのは日吉もだと思いながら、忍足はそれを口にすることはなかった。
「あのゲームから休憩してへんやろ。部室で、ゆっくり休みや」
 そうして、忍足は日吉の手を引いて歩き出した以外は、変わらずに二人の間を沈黙が支配している。正レギュラー専用の部室へ向かうまで、まだ練習時間だからか誰にも会わなかった。それだから、日吉は忍足の手を振り払わずに大人しくついて歩く。
 忍足も日吉も、いつもとは違う相手の態度に戸惑いを隠せていない。そもそも、試合形式のゲームで相手になる以外では、お互いに話しかける事などほとんど無かったし、あったとしても部活の連絡事項や挨拶程度だ。忍足のダブルスパートナーである向日が、日吉にちょっかいを出す事はあったけれど、だからといって忍足と日吉の対話が格段に増える事はなかった。
 それだから、余計に不思議なのだ。日吉も、忍足も。何故今日に限って、お互いにいつもとは違う態度なのかが。
 やたら豪勢な、正レギュラー専用部室。忍足はその扉を開くと、日吉を中に入れた。幸い部室には誰もいないようだ。どちらからともなく、安堵の息をつく。
「汗ちゃんと拭きや。後は水分やな」
 忍足が日吉から手を離し、冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出そうと、日吉に背を向けた瞬間。
 日吉が忍足のユニフォームの背中を掴んだ。途端に日吉の持っていたテニスラケットが、するりと彼の手から落ちて、乾いた音を立てながら床に倒れた。
「ひ、よし?」
「アンタは狡いでんすよ、どうして、どうしてそんな力があるのに上を目指さないんですか。アンタは、俺の望む物を、持っているのに、どうして」
 理解できません、と日吉は憤りとも焦燥ともつかない口調で捲し立てる。堰を切ったような、こんなに、誰かに何かを伝えるために饒舌になる日吉を、忍足は知らない。きっと跡部でさえ知らないだろう。
「けど、何で俺が、跡部さんじゃなくアンタをこんなに気にしなきゃならないんですか。どうして、今、こんな、嬉しいなんて思わなきゃいけないんですか」
「日吉……それは」
「おかしいんです、今日忍足さんと試合をして、まだ敵わないと思いました。けど、試合出来たことが、声をかけてもらったことが、こんなに嬉しいなんて」
 忍足は、背中に日吉の体温を感じながら、その独り言に似た彼の今の気持ちを聞いた。そして、納得した。
 自分だけではなく、日吉も同じ気持ちを抱いているのだと。
 ただ、きっと今までそんな気持ちに至らなかったのだろう日吉は、それの持つ名も昇華の仕方も分からずに、ただ持て余し燻らせ、焦燥に駆られていたようだ。今まで付かず離れず、特に親密になる訳でもなく過ごしていたのに、今日だけは、やたらと近かった。それが、積もり積もっていた日吉の、ひいては忍足の抱える感情を爆発させたのだ。
「日吉、好きや」
「は……忍足さん、何ですか……いきなり」
 忍足は、日吉に背を向けたまま口を開いた。それは忍足の素直な気持ちだったのだが、突然のその言葉に、ぐるぐると渦巻いていた日吉の思考はついていかない。パッと忍足の背中を掴んでいた手を離した日吉は、その手を力なく下ろした。そして、小さく息をついて忍足の言葉を反芻する。
「俺も、日吉と同じなんやで」
 返す言葉をつむげずにいる日吉に、止めと言わんばかりに忍足はさらに言葉をかける。それは、日吉の思考を渦巻かせるだけだ。
 忍足は、それから日吉に返事を催促する素振りは見せなかったが、その場を動こうともしない。




 どれくらいそうしていただろう。外からは掛け声やテニスボールの跳ねる音が聞こえてくる。多分数分間だったのだろうが、忍足にとっては何時間にも感じられた沈黙の後、ようやく日吉が口を開いた。
「忍足さんが俺と同じって、どういう意味、ですか。それじゃあ、まるで……俺が、忍足さんを好き、みたいじゃないですか」
 日吉の声は微かにだが震えていた。認めたがっているんだろう、忍足はそう意地悪く押すつもりはないが、それでも日吉の戸惑いに焦れったさを感じている。
 男同士だという疑問を抱く前に、とにかく早く認めてしまえという思いと、いつまでも待つからゆっくり考えて決めてくれという思いが、忍足の中でせめぎあっている。沈黙はやはり長く感じられて、忍足は、自身が珍しく誰かに翻弄されているのだと、改めて突きつけられた。
 そこに不快感が無いのだから、やはり日吉の事を好いているのだ。気付けば忍足は、背後にいる日吉が、早く何か明確な答えをくれないか、出来れば良い答えをと、切に願っていた。忍足の内面のせめぎあいは終わったらしい。
「忍足さん」
 先ほどよりもしっかりした日吉の声に、忍足はゆっくりと振り返る。

   日吉は、意思の強い、逃げを許さない目で、じっと忍足を見つめていた。


「本当に好きなら、俺を見てもう一度、そう言ってください」


 随分久しぶりに見た気がする日吉の目は、ただ真っ直ぐだ。彼の前髪がかかる瞳には、僅かに不安と猜疑が籠っている。その目に射抜かれた忍足の心臓が、動きを速めた。
 願うなら、日吉も同じように鼓動を早めていてくれ。忍足は柄にもなく、目の前の日吉にすがりたくなった。
「日吉、めっちゃ好きや、ホンマに好きや」
 言うが早いか、忍足は日吉が口を開く前に抱き寄せた。驚いたのか、息を呑んだ日吉に構うことなく、忍足は再び好きだと伝える。

 日吉の鼓動が、早まった。

「俺も、忍足さんが好きです」
 そう言って、日吉は遠慮がちに忍足の背中に手をまわした。
 日吉がようやく導いた答えに、忍足は満足そうに笑った。



fin.


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