Le vent sec



白みがかった平たい石を撫でて実感する。

あの人は、もう居ないのだと。

絡み付くような声で名前を呼ばれることも、彼の冷めた思想を聞くことも、もうできやしないのだと。
彼についてもっと知りたいと思う反面、知らなくて良かったのかもしれないとも思う。
彼は今まで会った人の中でも異端な存在だった。
私が彼について知っていることは、彼の人生において恐らく些細な、けれど私にとっては色濃く残るもので、それは今も変わらずに私の中にあって鮮烈な色を放っていた。
あそこまで卑劣で残酷で、けれど何処か胸を締め付けるような憂いを帯びた顔も、じわりと深く滴を落とすような耳に残る声も、彼との逢瀬も、私にとっては秘め事にも似た記憶だった。
そして、時折感じる脆く崩れそうな子供じみた彼の姿も。
それは、幾重にも重なった彼の仮面が剥がれ落ちるように不意に現れるもので、酷薄な彼の中にも確かに人らしい感情が燻っていることを知らされて、余計に彼を易々と手放すことなど出来なかった。

否、手放すのではなく、彼を単なる悪者として離れることが。

好いていたのかと問われても、きっと私ははっきりと答えることはできない。
少なくとも、彼も私も互いに特別な、言葉で明確に説明できない想いを抱いていたのは間違いではないと、今も思っている。
ただ、それが果たして恋愛と呼べるものだったのかは分からない。


こうして彼の墓前に立った今も、あの感情が渦巻くだけで、ただ涙が溢れた。




― 理想を信じられるわけがないだろう。現実を飽きるほど目の当たりにしているんだから。


彼はいつだったか、私にそう言った。その時の彼の表情を伺うことは出来なかったけれど、彼の見てきた現実はよほど覆せないと諦めてしまえるものだったのだろうかと勘繰るほど、声に滲んだ哀しさが私の胸に根を張り、静かに広がったのだ。
彼は城に連れていかれる間も、城に着いてからも、何故か私だけを呼んだ。あれはいつからだったか。彼は他に拐ってきた女性など一度も呼び立てていなかったというのに。
しかもそれは図ったように私が眠れずにいる時ばかりで、彼は意識していないようだったけれど、救われたような気分になった。
とはいえ、彼は私が眠れるように気遣うわけでもなく、ただずっと話し相手をさせられていたのだけれど。
彼は意外と饒舌だったが、自身については一切話そうとしなかった。私が彼について問いかけても、彼はいつもはぐらかしていた。
結局、彼の嗜好品や酷く冷めた思想の一部しか、私は知ることが出来ないまま。

あの夜、ヴェイグ達が獣王山へ向かう日だと聞いた前の夜に、私は初めて自分から彼の元を訪ねた。
何故か予感がしたのだ。


彼はもう、居なくなってしまうような。


私は不安を消したかったのに、彼はそんな私を冷めた目で眺めながら、不安をさらに増長させた。
―どう転んでも、僕は死ぬだろうさ。
ヴェイグ達を倒しても、もしもヴェイグ達に負けても、自分の前には死しかないと事も無げに言った彼は、本当に居なくなってしまった。
ヴェイグ達ではなく、同じ四星のトーマに殺されて。


それはあまりにも呆気ない終わりだった。


私は彼と他愛もない約束を交わしたのに、それさえも叶うことはもうない。
一緒に花を見ることも、一緒にピーチパイを食べることも、何一つ叶えられないのだ。

「サレさん…貴方は嘘をつくのが上手いですね」

呟いて冷たい石の上に花を添えた。
きっと彼の墓に訪れる人は私以外居ないのだろうと思う。
この添えた花も、次に来るときには枯れ果ててしまっているだろう。


それはまるで彼の業のようだと思う。
その反面、夢に魘される彼の寂しさのようだとも。


「…また、来ますね」

呟いて石を撫でて立ち上がると、冷たい風が吹いた。
バルカでは珍しい乾いた風は、まるで彼のようで、撫でるようなそれは心地よくもあった。

何だか嬉しくなって笑みを浮かべたら、つむじ風が巻き上がった。


意思があるようなそれは、まだ彼が居るのではないかと思えてしまうから、墓に一礼してそこを後にした。

 

 

end.


after works
僅かなのにとても沢山のように思えて。
Le vent sec:仏/乾いた風

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